【感想】内田樹の『困難な結婚』を読んで
1年程前に図書館で予約していた本が忘れた頃に届いた。
内田樹の『困難な結婚』という本で、現在でも30人待ちと人気のようである。
ちょうど週末友人の結婚式もあり思うところがあったので、心に刺さった文章を紹介したい。
配偶者は他人
内田さんが一貫して述べているのが「配偶者は他人である」論だ。
結婚というのは、「自分には理解も共感も絶した他者」と共に生活することです。「おのれの賢しらの及ばない境位」に対する敬意と好奇心がなければ、なかなか継続することのむずかしい試練です。 「大いなるもの」に結婚を誓言したあとに、ふと隣を見ると、そこに「他者」がいる。 この人もまた私の理解も共感も絶している、私の価値観や倫理観とは別の物差しで生きている、という点では「大いなるもの」と言うべきではないのか.........。この人の理解を絶したふるまいや、めちゃくちゃな言動の背後にはもしかすると「私の理解しがたい合理的秩序」が存在するのではないか.........もしほんとうにそういうものがあるのなら、ちょっと知ってみたい.........そういうふうなマインドセットを持つことができたら、結婚生活はたぶんずっと愉快なもの(控えめに言っても「耐え易いもの」)になります。
さらに、「他人のことはわからない」という前提にたったときの幸せ観を下記のように表現している。
何十年一緒にいてもついに相手のことはわからないんですよ。どうせわからないんだったら、「わからない」ということを前提にして、宇宙人と暮らしているつもりでいた方がいい。
二人の距離はわずかだからそれをゼロにしよう、そう思って努力するのはつらいです。
そうじゃなくて、二人の間には千里の隔たりがある、それを一生かかって七〇〇里までに縮めたいな、と。それくらい控えめな目標を掲げるといいんじゃないでしょうか。
だいたいみんな高い目標を掲げすぎです。そんな高すぎる目標はもちろん達成できません。だから、不充足感・不達成感を24時間ずっと感じるようになる。
(中略)
よくラヴ・ソングの歌詞に「抱き合っていても、この人の心はもうここにない」というようなのがありますけれど、これは話が逆だと僕は思います。「心がここにない人」とでも「抱き合う」ことができる。「愛してる?」と訊くと「もちろんだよ」と笑顔で答えてくれる。それでいいじゃないですか! なにを文句言ってるんですか!
理解も共感もできない人と、それにもかかわらず抱き合うことができる。お願いすると 「いいよ」と答えてくれる。こちらも頼まれたことは「はいよ」とやってあげることができる。素晴らしいことじゃないですか。「愛の奇跡」というのはそのことを言うのだと僕は思います。
(中略)
あのですね、他者というのはとっても遠いところにいるんです。声も届かないし、手も届かない。その「遠いところにいる人」に触れることができる。その人の声を聴くことができる。その人を抱きしめることができる。それだけでみごとな達成だと僕は思いますよ。 それ以上のことが起きたら、それは「ボーナス」だと思ってありがたく頂けばいい。 でも、それはあくまで「ボーナス」なんです。それをめざしてはいけない。その手前をめざしてこつこつ努力をしていると、思いがけなくもたらされる(こともある)。それくらいがいいと思います。
「ああ、もう本当にその通りです、これ以上はどうかご勘弁を」という気持ちで読んでいた。
圧倒的な納得感と目を背けたいような苦しさに押しつぶされそうになるのはなぜだろうか。
過去の数々の失敗と照らし合わせることで、自意識が乱反射するからに違いない。
「わかってもらいたい」と思う傲慢さ
恋愛は合法的な麻薬による中毒症状である。
当然、人間から冷静な判断能力を奪うものでもある。
そんなマリオのスター状態から早めにノコノコ(現実)にぶつかって通常時に戻れるとよい。
だが、幸か不幸かそのトップギアから抜け出せない状態が続くと「相手に自分の気持ちを分かってもらいたい」という傲慢な依存心に無意識に支配されてしまう。
そうなると人間の関係性は途端に不健康になる。
・・・
学生時代、彼氏と同棲をしていた。「何食べようか」なんて言いながら一緒に買い物に行き、「アサヒがいい」「いや、サッポロ一択でしょ」などというくだらない会話をしながら食材を放り込む。なんの変哲もない時間が、何より幸せだった。そして当時はそんな時間がずっと続くと思っていた。
しかし、毎日毎日一緒にいると、相手への甘えが出てくる。
どんなに尊敬で始まった関係性だとしても、だ。
過ごす時間が増えるにつれ、自分と相手が同質化してくるような感情に襲われる。
キノコ(合法)に毒されたスター状態故に、こんなに一緒にいるのだから私の気持ちを分かってくれて当然という気持ちに陥ってしまうのだ。
自分はそうでなかったとしても、相手がそういう感情に陥るのを察知すると不思議と自分にもその感情がうつり加速する。表向きでは冷静なロジカル人間でも、である。
「料理を作ったのは私だから、お皿を洗ってくれるのはあなた(と私は思っているけど、洗ってくれる気配はない)」
はじめはそんな些細な期待のすれ違いからはじまった。すれ違いが重なれば重なるほどその落胆度合いは加速度的に弾みをつける。関係性が崩れるのは時間の問題だった。
・・・
『困難な結婚』を読み、そんな青春時代を思い出した。
社会人となり年相応の不条理を経験した今であればもっとうまくやれるはず、とは思う。後悔がないといったら嘘だ。
ただ、あの頃経験した失敗のおかげで、人間関係への潔癖な感情は薄まった。ちょっとばかし人に寛大になれた気もする。少しずつではあるが、「人に期待しないことで失望しない」というスキルも身に付けつつある。
人間関係の「ボーナス」はあってないようなもの、もらえたらラッキー、そう心に刻んで生きていきたい。